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伝説のホップだけでつくったビール「SORACHI1984」をつなぐ者たちの物語<エピソード1~「育種家」という仕事 後編~>
ここをお読みのみなさんは、「育種家」という職務をご存じですか?
国内のビール製造においては原材料となるホップと大麦を、不特定多数の生産者から商社を通じて買い付けるだけのメーカーが大半です。しかし、サッポロビールでは一部の製品を除き、決まった生産者と相談しながら育て、用いています。しかも、それら原料の品種開発までも、社内で行っているのです。

先の「育種家」とは、その品種改良を行うスタッフのこと。今回は、その育種家である鯉江弘一朗にその仕事を語ってもらいました。
前編では育種家という仕事や、ホップという作物がどういうものかが話題となりましたが、今回はよりディープな部分を掘り下げます。
前編記事はこちら:https://blog.sapporobeer.jp/knowledge/14106/
■ホップが醸す香りに着目 コーヒーよりも多彩!?
――ふつうの農家とは違う、育種家ならではの苦労ってありますか?
鯉江:一般的な農家ではひとつの作物につきひとつの品種を大量に育てるのが普通ですが、育種家の場合、大量の品種を少しずつ育てて管理していく大変さはありますね。
――品種開発は“違い”を生み出すのが目的ですよね。どんな違いに着目するか、テーマみたいなものはありますか?
鯉江:10年くらい前からアメリカを中心にクラフトビールのブームがはじまっていますが、それに連動するようなかたちで、ある種のホップがフルーツのような香りを演出できることがわかってきました。そこで今はホップの“香り”に注目が集まっていますね。
――味わいの違いだけでなく、香りの演出という意味でもホップが注目されているんですね。
鯉江:「SORACHI 1984」に使われている「ソラチエース」も香りに特徴があり、注目を集めるきっかけとなりました。現在のビールづくりでは、柑橘系の香りがするものなど、ホップの違いでいろいろなフレーバーのバリエーションを生み出すことがひとつのトレンドになっていますね。
――コーヒーも産地や品種といった豆の違いでフレーバーに差が出ますけど、それに似たような話がホップでもあるんですね。
鯉江:香りをテーマにしたホップの研究開発はまだはじまったばかりですが、かなりの可能性を感じています。ひょっとしたらそのバリエーションはコーヒーの品種以上に多彩かもしれません。

■狙い通りにならな難しさとおもしろさ ときには定説を覆す発見も
――新しい品種を作り出すときの方針はどうやって決まるんですか?
鯉江:香りや苦味など、育種家個人ではなく、部署全体でそのときどきの目標を決めていきます。ただ、必ずしも組織としての目標が最優先となるわけでもなく、いろいろな方向性を探ることは続けています。
――育種家としての喜びはどんなときに味わえるのでしょうか?
鯉江:狙った通りの品種が開発できたとき、と言いたいのですが、これがなかなか思い通りになりません。たとえばタネから1000の新しい苗を作っても、利用価値があるレベルのものは、10くらいしかないんです。
――約1%とはなかなか厳しい数字ですね。
鯉江:遺伝学的なアプローチや統計学的手法で1%からもっと高める努力はしていますが、難しいですね。もっとも、残り99%の失敗例も、知識として蓄積されていきます。その失敗を含む経験の蓄積が何十年分もあるのは弊社の強みでもありますね。
海外の育種家と話しても同じようなことを言っています。弊社同様、皆さん計画を立てて取り組んでいるんですが、「狙った通りの結果はなかなか出ない。だからおもしろいよね」と。
――品種開発におけるホップならではの難しさがあるのでしょうか?
鯉江:たとえば人間の場合、親と子どもの姿はそっくり同じになるわけではなく、顔立ちや体格など、「似ている部分が多くなりやすい」といった程度ですよね。
ホップも性別があって兄弟でも同じ性質にならないなど、人間と同じようなところがあって、狙って引き継がせることが難しい要素が多いために、思った通りの特徴を持った品種を作るのが難しいいんです。
だからこそ、予期せぬところから狙ったのとは違う好結果が出てくるようなことがあって、そういうときは興奮しますね。
――もともと成功率が低いだけにそれは驚くし、確かに興奮しそうですね!
鯉江:フラノマジカルっていう新しい品種を見つけたときは、「日本のホップでは出せない」とされていた香りがしたんです。
サンプルの取り間違えなどを疑って、翌年もう一度試してみたところ、同じ香りが出て「こんなにスゴいものができたのか」と驚かされました。

■機械で検出できない香りを人間が判断
――なるほど、育てる土地の風土によって、出せない香りがあるんですね。
鯉江:そう言われていたんです。論文でも日本の栽培法ではその香りは出ないのではないかと書かれていたり、なかば定説と思い込んでいました。でも弊社が作ったフラノマジカルはその定説を覆すものでした。
――香りの評価は成分分析などで行うんですか?
鯉江:ガスクロマトグラフィーという装置を使った成分分析も行いますが、フラノマジカルの香りは極めて微量でも人間が感じ取れる成分であり、ガスクロマトグラフィーではかんたんに量を計れないんです。でも、人が嗅ぐと、違いを感じることができます。
人間の感覚を使って行う検査を官能検査とか官能試験、官能評価と呼ぶのですが、感じ方とそれをどう表現するかは人によって違うため、客観的に比較するは難しい場合があります。
もともとホップの評価における指標として香りは比較的新しく、官能評価を当社で整備できていなかったため、香りに基づいた品種開発は難しいものがありました。それを体系的に評価できるような方法を用意したところ、2年目にしてフラノマジカルという大発見を生みました。
――男性と女性で感じられる香りに違いがあったり、持っている遺伝子によって特定の人だけが感じられる香りがあったり、香りの評価は難しそうです。
鯉江:香りを感じられる器官、嗅覚受容体の種類は何百とあって人それぞれにどんなものを持っているか、またその個別の受容体の特性も違います。つまり、感じ方に多様性があるんですね。でも、このフラノマジカルの香りについては研究員の誰もが感じられるものでした。
――人によって感じ方も違えば好みも違うところが香りで評価する難しさでは?
鯉江:確かにそうですね。国ごとの文化によって好みが分かれることもありますし、性別や年齢によって評価が変わってくるケースもありますね。
結果に影響が出ないように官能試験が終わってからみんなで感想を言い合ったりするんですけれど、他人がどう感じたかはかなり気になります。
難しい部分はありますが、だからこそホップの品種開発やテストは楽しくも感じますね。「SORACHI1984」にフィールドマンとして関わっている上本允大(次回インタビュー予定)も、「嗅いだことのない香りが出てくると、わくわくするし、やってよかったと感じる」と語っていました。

■育種家から見たソラチエースと「SORACHI1984」
――「SORACHI1984」は“伝説のホップ”こと「ソラチエース」を使って作られたことが強くアピールされています。ホップの品種にこれほどスポットがあたった製品は珍しいですよね。
鯉江:ソラチエースがサッポロビールの畑で生まれたのが1984年。1999年に私が入社した当時はソラチエースは“スタンダードな品種”として扱われていて、いわゆる普通の品種だったんです。
強いて言えば葉がよく茂るわりに球花の数はあまり多くないために、栽培に難しさがある品種と感じていました。
ソラチエースの特徴は「ヒノキやレモングラスのよう」と表現される個性的な香り。爽快感やのどごしのよさが求められることの多い日本のビールではあまり上手く生かす方法が見つけられないでいました。
私個人もこれほどに特徴のある香りが立つホップだとは思っていなかったので、海外で大きな話題になったときに「あのソラチエースが!?」と本当にびっくりでしたね。
――現在のブームのきっかけは海外からだったんですね。
鯉江:2002年にアメリカでホップ農場のマネージャーを務めるダレン・ガメシュさんがソラチエースの香りに衝撃を受けて、知り合いのブルワリーに紹介するようになったのがきっかけですね。アメリカのクラフトブルワリーで香りや味が高く評価され、それがヨーロッパに伝わっていきました。
個人的に驚いたのは2010年、ドイツにホップの買い付けに出かけたはずなのに、ホップを扱う供給業者から「日本のソラチエースを売ってくれないか?」と逆オファーを受けたんです。
当時は確かにソラチエースの需給がかなりタイトになってて、「ソラチエースのステータスはそこまで上がっていたのか」と驚きましたね。また、ニュージーランドのかたに日本のソラチエースの価値について聞いたところ、「日本のソラチエースはボルドーのカベルネ・ソーヴィニヨンと同じように本物としての価値がある」と言われたこともあります。ドイツからの逆オファーにはそういう認識もあったのかもしれません。
それ以来、ソラチエースの高い人気と需要は衰えないまま今に至っています。

■ソラチエースは育種家としての夢
――見慣れていたはずのソラチエースが自社製品でも大々的に使われるようになってみて、どう思われましたか?
鯉江:現在の「SORACHI1984」の源流とも言える製品が、2016年に発売された瓶入りの「ソラチエース」です。パワーがあって一口一口に満足感があり、当時は余韻を楽しみながらちびちびじっくり楽しんでいましたね。
ソラチエースらしさというか、ほかのホップ、ほかのビールではあまり感じられない重厚感があると思いました。
その後、2018年に上富良野産のソラチエースを100%使用した缶入りの「ソラチエース」が出て、2019年の「SORACHI1984」へと繋がります。缶になってからはこのレベルのビールが手軽にスーパーで買えるようになったことにまた驚かされましたね。
ホップの印象があまり強すぎて「本当に売れるのかな?」と疑問に思うこともあったのですが、お客様にも受け入れられていて、そこもうれしく思いました。
――缶入りになって販路が広がり、一段と入手しやすくなりましたね。鯉江さんはこの「SORACHI 1984」はどんなシチュエーションにあうビールだと思いますか?
鯉江:ちびちび飲んでも一口ごとにソラチエースならではの香りとパンチが味わえるので、くつろいでいるときに何かしながら飲むのが個人的にはオススメですね。
それと、「SORACHI1984」は和食にもあうところが気に入っています。
――育種家のかたから見ても、ソラチエースと「SORACHI1984」の個性は際立っているということですね。
鯉江:ソラチエースを超える、あるいは肩を並べるようなホップを作ろうと頑張ってはいるのですが、やはり難しいですね。育種家としてソラチエースの素晴らしさ、偉大さをあらためて感じています。
先に「新たな品種の評価には10年かかる」と言ったのを覚えていますか?
――今は技術の進歩や工夫によって5年くらいに短縮されたというお話でした。
鯉江:いくつも作った品種のなかから高い評価を得たひとつが「ソラチエース」と名前を付けられたのが、1984年です。交配によってサッポロビールの畑でソラチエースのタネができたのはさらにそこから9年も前、1975年なんです。
そこから25年くらい経ってアメリカを中心に話題になり、30年以上経って「ソラチエース」や「SORACHI1984」という美味しいビールが新たに生まれ、さらに近年になって社内の研究者がソラチエースの香りの秘密を科学的に解明するというトピックもありました。
育種家が生み出した一粒のホップのタネを起点に、約45年もの時をかけて、全社的に一体感が感じられる大きなムーブメントが生まれているところに、育種家としての夢も感じますね。

――国内のビール会社でホップの品種開発を行っている、つまり育種家という職務があるのはサッポロビールだけ。新たなホップを生み出す育種家という仕事の苦労と楽しさ、奥深さの一辺を知っていただけたのではないかと思います。
次回はこれもサッポロビールにしかない、フィールドマンという職務に就く、上本允大のインタビューをご紹介します。
原料開発研究所 北海道原料研究グループリーダー 兼 購買部 フィールドマン
鯉江弘一朗(こいえこういちろう)
●プロフィール1999年サッポロビール株式会社に入社。
上富良野町のホップ研究部(当時)に配属、それ以来主にホップの品種開発・研究開発に携わる。2010年から価値創造フロンティア研究所で香りや加工の研究開発に従事、2012年に再び原料研究に戻り、2020年より北海道原料研究グループリーダー。2003年から協働契約栽培がスタートし、それ以来今に至るまで欧州ホップフィールドマンを担う。ホップ登録品種はリトルスター、フラノスペシャル、フラノビューティ、ふらのほのか、フラノマジカル、フラノクイーン、ほか。
(文=稲垣宗彦)
