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ジョージ・ワシントンがウイスキーを造っていたのは本当か

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ジョージ・ワシントンは、アメリカ合衆国の初代大統領として知られています。実は大統領退任後に、ウイスキーの蒸留所を経営していたという逸話が残っているのですが、ご存じの方はどのくらいいるのでしょうか。

今回は、ジョージ・ワシントンとウイスキーの関係について紹介します。

ジョージ・ワシントンとはどんな人だったのか

ジョージ・ワシントンは、もっとも有名なアメリカ合衆国の大統領のひとりです。彼はいったいどのような人だったのでしょうか。

ジョージ・ワシントンのプロフィール

・出身地:アメリカ合衆国バージニア州ポープス・クリーク

・生年月日:1732年2月22日

・没年月日:1799年12月14日(享年67才)

ジョージ・ワシントンは、「建国の父」とも呼ばれており、アメリカ合衆国初代大統領として知られています。大統領の在任期間は、1789年~1797年の8年間でした。途中一度の再選を挟み、57歳から65歳までの間を大統領として過ごしています。

【年表】ジョージ・ワシントンの生い立ち

ジョージ・ワシントンの生い立ちを下記の年表で紹介します。

・1732年 バージニア州ウェストモアランド郡に生まれる

・1748年 農園主になる

・1749年 カルピーパ郡の測量士になる

・1752年 民兵の地区隊長、少佐になる

・1754年 バージニア市民軍の大佐に任命される

フランス軍排除のため州知事に派遣される

・1758年 デュケイン砦のフランス軍排除

バージニア植民地議会に選出される

・1759年 マーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚

・1774年 第一次大陸会議の代議員に選出される

・1775年 アメリカ独立戦争にて、植民地軍総司令官に就任

・1783年 アメリカの独立が承認される

陸軍最高司令官を退任

・1787年 憲法制定会議で議長に選出される

・1789年 アメリカ合衆国初代大統領に選出され、就任する

・1797年 大統領を辞任

・1798年 陸軍最高司令官に指名される

・1799年 自宅にて死去

このように、ジョージ・ワシントンはアメリカ合衆国の独立と建国に向けて奔走した中心人物といえます。アメリカ合衆国初代大統領には、得票率100%で選出されるほど、非常に信頼の厚いリーダーでした。

ジョージ・ワシントンはなにをしたのか

ジョージ・ワシントンは、独立戦争時から活躍していましたが、大統領就任後も歴史に残る様々なことを成し遂げています。

出来事によっては賛否両論ありますが、人気者であったことは間違いありません。ジョージ・ワシントンが何をしてきたのか紹介します。

独立戦争総司令官

1775年に独立戦争が始まると、植民地代表が開く大陸会議にて、ジョージ・ワシントンは独立戦争を指導する総司令官に任命されました。1777年のサラトガの戦いで大勝を果たすまでは、非常に厳しい戦況が続きます。

ヨークタウンの戦いで見事に勝利を収め、アメリカは本国イギリスからの独立を果たしました。これらの戦いを指揮したのがジョージ・ワシントンです。「独立の父」「建国の父」として後世に名を残しています。

ナポレオンなどにみられるカリスマ性はあまりなかったとされるものの、類まれなる強運の持ち主としても知られており、運を味方につけてアメリカの独立を勝ち取ったのです。戦争中に受けた一斉射撃でも、傷1つなかったという逸話も残っています。

初代大統領就任

独立戦争に勝利し、憲法制定会議の議長となったジョージ・ワシントンは、対立する派閥同士の討議をまとめ上げてアメリカ合衆国憲法を制定しました。その後、制定したアメリカ合衆国憲法に則って、初代大統領が選ばれることになります。

人望も厚く、大衆の人気者であったジョージ・ワシントンが初代大統領の椅子に座ることになったのです。多くの人に望まれて2回目の大統領選挙でも当選を果たし、2期にわたってアメリカ合衆国を引っ張るリーダーを務め上げました。

黒人奴隷農場主

ジョージ・ワシントンは、400人もの黒人奴隷を抱える農場主でもありました。結婚を機に、大農園の農園主であった妻のマーサから大農園を受け継ぎました。奴隷の家庭に配慮して、奴隷の売買をしないなど、当時としては先進的な考えをもっていたようです。

また、黒人奴隷が身近に存在する生活をあまり好んでおらず、国が二分してしまうことも危惧して奴隷は解放すべきという考えもありました。

ネイティブ・アメリカン排除

ジョージ・ワシントンは、ネイティブ・アメリカンの排除に尽力していました。彼が軍隊にかかわるようになってから政界を引退するまで、一貫してネイティブ・アメリカンの排除に徹しています。

先のフレンチ・インディアン戦争にて、兵士としてイギリス軍に従軍していたネイティブ・アメリカンの戦う姿を見て、嫌悪感を強めました。インディアンは獰猛な部族だとして、徹底的に排除し、従わない部族には迫害などを行っています。

そのため、一般の国民からは英雄視されていますが、ネイティブ・アメリカンの視点に立つと、ジョージ・ワシントンは侵略者にほかなりません。

このように、ジョージ・ワシントンは、どの視点で見るのかによって評価が正反対になる人物です。

ジョージ・ワシントンの人となり

前述のとおり、ジョージ・ワシントンはアメリカ国民にとっては、独立の象徴でありヒーローです。一方で、ネイティブ・アメリカンの排除など、気に入らないものを徹底的に排除しようとする侵略者の顔も見え隠れしています。

そんなジョージ・ワシントンはどのような性格の人物だったのでしょうか。

ジョージ・ワシントンは、アメリカ合衆国初代大統領という華々しい地位にいながらも、権威、権力に貪欲ではないタイプであったという説があります。

権力が人を変えるというのは、過去をみても往々にして起こっていることです。しかし、ジョージ・ワシントンはその権力にすら興味がなかったようです。一説には、農園の主として一生を終えたいという思いがあったといわれています。

また、ジョージ・ワシントンは同じ人間が長く権力をもつべきではないと考えていたといわれています。人気を博しているにもかかわらず、大統領を引退したことが、行動の現われです。このような謙虚さや誠実さが人気の秘訣だったといえるでしょう。

アメリカ合衆国の憲法で制定した「大統領に就任できるのは2回、8年まで」という決まりを忠実に守り、3回目の大統領選挙は立候補すらしなかったようです。多くの支持者から立候補するように頼まれましたが、それを全て断って辞任を決めました。

辞任後は、表舞台に立つことなく、その2年後に病死しています。

ジョージ・ワシントンとウイスキー蒸留所

様々な伝説を残したアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントン。有名な桜の木の逸話は、伝記作家のでっちあげだといわれています。また1ドル銀貨をポトマック川の対岸まで投げることができたという話もありますが、当時1ドル銀貨はまだ作られていないはずです。

木製の入れ歯をしていたという伝説も事実ではありません。ワシントンの入れ歯は、カバの牙、金属、人の歯で作られていました。しかし、18世紀アメリカ最大のウイスキー蒸留所を経営していたという話は本当です。「生産量ではアメリカでトップ3に入っていたはず」とワシントン経営の蒸留所があるマウントバーノンで歴史部門のディレクターを務め、蒸留酒の製造も手がけるスティーブ・ベイショア氏はいいます。「1799年には11万ガロン(約4万リットル)近いウイスキーを製造していました」

1797年3月に大統領を退任したワシントンは、公邸(当時、ホワイトハウスはまだ建設されていません)を離れ、引退後はのんびりしたいと少年期を過ごしたバージニア州マウントバーノンに戻りました。

しかし、ワシントン所有のプランテーションを管理していたスコットランド人のジェームズ・アンダーソン氏は、別の計画を描いていました。清麗な水と様々な種類の穀物、中でもウイスキーの最も重要な主原料であるライ麦が育ち、最先端の製粉所まで揃っているマウントバーノンはウイスキーの製造に理想的であると考えたアンダーソン氏は、裕福な元大統領である主人のワシントンに蒸留所を建設するよう説得を試みました。

“アメリカ建国の父”として長年活躍したワシントンはこの時65歳。悠々自適な余生を送ってもいい年齢でした。ウイスキーの醸造所を作ると、ガラの悪い連中が集まってくるかもしれないという心配もあり、当初は消極的でした。しかし、切れ者のワシントンがビジネスチャンスを見逃すはずはありません。また、ワシントン自身も時折お酒を嗜むこともあったといいます(ウイスキーよりマデイラワインやポータービールの方が好みだったそうですが)。こうして1797年後半には、マウントバーノンでウイスキー製造を始める許可をアンダーソン氏に与えました。

バージニア州マウントバーノンにあるジョージ・ワシントン蒸留所

by John Greim / Getty Images

ワシントンのウイスキーは、発売されるや否や大ヒット商品となりました。マウントバーノンの記録によると、1799年に製造された11万ガロン強のウイスキーは7500ドル(現在の14万4000ドル=1600万円相当)の利益を上げたということです。今日流通しているウイスキーの大部分とは違い、ワシントンのウイスキーはできるだけ早く出荷するために熟成されていませんでした。

「いち早く出荷するため、ウイスキーをスチル(蒸留器)から直接樽に詰めていました。当時は木樽熟成していてない“ホワイトウイスキー”が当たり前だったからです」とベイショア氏は語ります。「彼らはウイスキーをいち早く店舗へ、市場へ、そして飲み屋へ届けたかったのです」。また興味深いのは、ワシントンが作ったウイスキーはエリートや富裕層のためのものではなかったという点です。18世紀の平均的なアメリカ人が消費するために作られ、相応の価格で販売されたといいます。ベイショア氏によると「それは普通の人のための普通のウイスキー」だったということです。

それから2世紀以上が経過し、マウントバーノンの蒸留所ではウイスキーの生産が再開されました。長期に渡る改修工事を終え、2009年には昔ながらの蒸留所が再び稼働し始めたのです。今では観光のオフシーズンに当たる3月、11月に毎年仕込みが行われています。ベイショア氏率いるチームは、毎年およそ1200ガロン(ボトル4000~5000本相当)のウイスキーを生産します。安全上の理由や現代の法規制により多少の変更はありますが、発酵・蒸留はほとんど全て18世紀と同じ方法で行っているということです。

もちろんワシントンのウイスキーは販売されていますが、ウイスキー愛好家の皆さんはマウントバーノンまで足を運ばなければなりません。プランテーションのギフトショップと蒸留所でしか販売されていないからです。また、全ての売上はマウントバーノンにおける教育プログラムと蒸留所の保存のために使われています。

気になるテイストはというと、筆者は鋭い味覚を持ち合わせていませんが、ジャック・ダニエルなどにはない独特のスパイシーさを感じました。これはベイショア氏も認めるところです。さらにベイショア氏によると、18世紀スタイルのウイスキーによくあるコーンと穀物の後味も感じられるということです。

アメリカ初代大統領が作ったウイスキーで、プレジデントデー(リンカーンとワシントンの誕生日を記念した祝日)に祝杯をあげたいという方は、心の準備をしておいたほうが良いとベイショア氏はいいます。「人によっては、熟成していないウイスキーを強すぎると感じることもありますからね」

ジョージ・ワシントンの「ライウイスキー」

ジョージ・ワシントンは、蒸留所でライウイスキーを造っていました。ライウイスキーの原料はライ麦です。すっきりしていながらもほろ苦く、スパイシーな味わいで、ウイスキーを飲み慣れた人が好みやすいものとなっています。

ジョージ・ワシントンが造っていた当時は、色がないウイスキーでした。しかし、最近では琥珀色のような色になるまで熟成させてから飲むのが一般的です。

ライ麦の収穫量が減っているので、他のウイスキーのように種類が豊富なわけではありません。しかし、そのスパイシーで独特な香りを楽しみたい人も多く、たくさんの愛好家がいます。

また、ライ麦は小麦や麦に比べて糖質の量が少なく、グルテンも少量なので健康食品のイメージをもっている人も多いかもしれません。ヘルシーで健康的なイメージが、ライウイスキーの人気を後押ししているひとつの要因です。

アメリカの基準では、以下の条件に当てはまるものだけがライウイスキーとして流通できます。

・ライ麦が原料の51%以上を占めるもの

・アルコール度数が80度以下であるもの

・内側を焦がしたオークの樽で熟成させたもの

かつてはジョージ・ワシントンが愛し、アメリカのウイスキーの中で最もポピュラーであったライウイスキーは、このような基準の中でその質を守り続けているのです。

まとめ

今回は、ジョージ・ワシントンとウイスキー蒸留所について紹介しました。初代アメリカ大統領とウイスキーは、一見関連がないように思いますが、実は非常に深い関係があったことがわかります。

数々の功績を残したジョージ・ワシントンが愛したライウイスキーをぜひ夜のお供にいかがでしょうか。

この記事はFood & Wineのマット・ブリッツが執筆し、 Industry Diveパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされています。ライセンスに関するお問い合わせはlegal@industrydive.comまで。

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