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新一万円札の顔!「渋沢栄一」とサッポロビールの関係
みなさん、こんにちは。
突然ですが、「渋沢栄一」と聞いて思い浮かぶことはありますか?
-2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公?
-2024年に新しくなる一万円札の顔の人?
…いろいろと思い浮かべられる方も多いのではないでしょうか?
「ピンとこないな…」という方も、実は知らず知らずのうちに渋沢氏の恩恵にあずかっているかもしれませんよ?
なぜなら、JR東日本・日経新聞・みずほ銀行・帝国ホテル・明治神宮・聖路加国際病院…これらすべての設立に関わった人物こそが、「渋沢栄一」氏だからです!
そして私たち「サッポロビール」も、渋沢氏が設立にかかわった企業の一つ。本日は、日本の資本主義の父「渋沢栄一」氏とサッポロビールの歴史についてお話いたします。
渋沢栄一とは?
渋沢栄一氏は天保11年2月13日(西暦:1840年3月16日)、現在の埼玉県深谷市の農家生まれ。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父や従兄弟の尾高惇忠から学問の手解きを受けていたそうです。
そんな渋沢氏のキャリアは実に多彩なものです!
20代で尊王攘夷の意思を抱く、「尊王攘夷の志士」となりますが、京都で志士活動に行き詰まり、縁あって、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることに…。
1886年、慶喜が徳川幕府最後の将軍になると「幕臣」として、1867年のパリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問。語学や諸外国事情を学び、各地で先進的な産業・諸制度を見聞する機会を得ました。
帰国後は、ヨーロッパ各国で得た知見・経験を活かし、明治政府の大蔵省で「役人」として従事します。
そして、1873年、33歳の時に大蔵省を退官し、総監役となり第一国立銀行を開業。その後、1928年設立の「日本航空輸送会社」を設立するまで、約500社の企業の設立にかかわる、「実業家」としてのキャリアをスタートさせます。
簡単にお話しただけでも、実に多彩なキャリアであることがお分かりいただけたかと思います!この他、約600もの社会公共事業にも携わっているというから驚きです!
実は筆者も渋沢氏と同じ、埼玉県出身。小学校の授業で「埼玉の偉人」として渋沢栄一氏の功績について学んだことを覚えていますが、社会人になってから、余計その偉大さが身に染みています…。
出典:財務省ウェブサイト
当時のビール事情
日本にビールが入ってきたのは江戸時代中期です。その当時の日本は鎖国を行っており、外国との交流・貿易が制限されていた時期でもあります。そして、鎖国時代において唯一交易が許されていたのが長崎県の出島でした。
はじめてビールを飲んだ日本人についての記録は、『和蘭通詞(おらんだつうじ)』に収められています。1724年に今村市兵衛氏と名村五兵衛氏が記したもので、2人は長崎県の出島でビールを飲んだものの、「まったく口には合わない」と評しました。
1812年になると、オランダ商館の商館長ヘンドリック・ドゥーフ氏によって、出島で日本最初のビール醸造が試みられました。これまで定期的に入手可能だったビールが、オランダ船の来航が途絶えたことにより入手困難になったことがきっかけといわれています。
このように江戸時代中期には日本に入ってきていたビールですが、鎖国の影響もあり、一部の人が知るお酒という程度に留まりました。
本格的にビールが世間に浸透しはじめたのは、幕末期~明治に入ってからです。
1853年の黒船来航がきっかけとなり、アメリカや西欧諸国との交易が盛んになると、横浜でもビールが輸入されるようになります。そして、主に居留外国人向けにビアホールのようなお店が開店するようになり、そこでビールを楽しむ文化が定着しました。
明治時代になると、政府は日本を近代国家へと成長させるために西洋の文化や生活様式の導入を促進し、それにともなってビールも日本各地で飲まれるようになります。
1870年(明治3年)には、アメリカ人のウィリアム・コープランド氏によって日本初のブルワリー(ビール醸造所)「スプリング・バレー・ブルワリー」が横浜に設立されました。
その後、1872年には渋谷庄三郎氏が日本人ではじめて本格的にビールの醸造および販売を大阪で開始し、それがきっかけとなり日本各地でもブルワリーが増えていきます。たとえば、1873年には甲府で野口正章氏がビール醸造をはじめ、1876年には北海道で「開拓使麦酒醸造所」が設立されました。
このように、国内でもビール産業が成長を見せるようになりますが、この時期に主役だったのは舶来ビールです。国内ビールはまだ成長の途上にありました。
また、今でこそ手頃な価格で購入できるビールですが、当時のビールは高級品で大瓶だと約6,000円でした。
日本各地にビールが浸透しつつあったとはいえ、とても庶民が手を出せるような価格ではありません。そのため、当時のビールは主に富裕層が楽しむためのお酒でした。
渋沢栄一とサッポロビールの出会い
渋沢氏と、私たちサッポロビールとの出会いは、1887年にさかのぼります。
サッポロビールの前身、1876年9月に北海道で設立した「開拓使麦酒醸造所」は、1882年の開拓使廃止後、農商務省、その後北海道庁に引き継がれましたが、1886年に北海道庁から、大倉喜八郎率いる「大倉組商会」に払い下げられることとなります。すなわち、民営化です!企業の存続がかかった大きな転換期だったと予想されます…。
翌1887年、大倉氏はビール事業をより確実なものとするため、政財界に影響力を持つ渋沢氏らを経営陣に加え「札幌麦酒会社」を設立しました。
『お!「サッポロビール株式会社」に急接近!』と思った、そこのあなた…。この数年後、再び社名に「札幌(サッポロ)」の文字がつかなくなりますので、どうか気長に付いてきてくださいね。
さて、この「札幌麦酒会社」で渋沢氏は醸造場譲渡約定書の「創立発起人総代」として筆頭に名を連ね、委員長に就任しました。渋沢らの加入により、ここから札幌ビールの基礎が確立されていくことになります。
1893年、札幌麦酒会社は社名を「札幌麦酒株式会社」へ改称します。
翌1894年に渋沢氏は取締役会長に就任します。東京在住の渋沢氏は、現地で札幌麦酒の経営に専念できる人材が必要と考え、北海道炭礦鉄道会社監査役だった植村澄三郎氏を専務に推し、実務面の最高責任者として迎え入れました。
植村氏は原料麦の改良、麦芽・ホップの国産化などにつとめ、会社の繁栄に貢献。功績をたたえた胸像が北海道札幌市のサッポロファクトリー敷地内にも設置されています。
札幌麦酒は、ビール需要の高まりに伴い、資金力を増し、札幌工場の製造能力増強!さらに京浜市場の販売強化のため東京工場を建設します。その結果、1905年、ついに業界シェア日本一に躍進しました!
札幌麦酒の大躍進で苦境に立たされたのが、東京でビール事業を営む「日本麦酒」を率いていた馬越恭平氏です。
馬越氏は、「競争よりも団結すべきだ」と論じ、当時、札幌麦酒の会長をしていた渋沢氏、西日本でシェアを伸ばしていた「大阪麦酒」社長の鳥井駒吉氏らに団結を呼びかけました。
競合である企業に団結を呼びかけるなんて、素晴らしい判断力と行動力ですね!
渋沢氏はこの考えを受け入れ、合同を調整。そして、1906年、日本麦酒、大阪麦酒、札幌麦酒が合併し、市場シェア7割を占める「大日本麦酒」が誕生しました。
渋沢氏は大日本麦酒の社長に馬越氏を選びました。馬越氏は社長を引き受ける条件として渋沢氏の取締役就任を挙げ、渋沢氏はこれを承諾。常務取締役には植村澄三郎氏が就き、その後、馬越氏と共に会社を支えることとなります。
馬越氏は、大日本麦酒をスエズ運河以東最大のビール会社へと導き、後に“東洋のビール王”と呼ばれることになりますが、この功績も渋沢氏のサポートあってこそかもしれません。
渋沢氏は1909年まで大日本麦酒の取締役を務め上げました。
没後、大日本麦酒の分割へ
渋沢栄一氏は経済界を引退し、1931年に91歳で亡くなりました。そして、渋沢氏が大日本麦酒の取締役を辞めてから40年後の1949年に変化が訪れます。
1949年9月、大日本麦酒は「日本麦酒株式会社」と「朝日麦酒株式会社」に分割されました。
これは、第二次世界大戦後にGHQのダグラス・マッカーサーの指示の下に1947年に制定された「過度経済力集中排除法」が適用されたことによるものです。経済民主化の一環として大企業の経済力の集中を排除する目的で制定された法律で、この法律によって大日本麦酒は分割されることになりました。
分割時の日本麦酒と朝日麦酒の資本金は、均等に1億円です。両社の支社と工場は東京と九州に、ただし日本麦酒は北海道~名古屋に、朝日麦酒は大阪以西の西日本に、それぞれ支店と工場を持ちました。
日本麦酒が現在のサッポロビール株式会社の前身となるのですが、分割された時点では「サッポロ」と名乗るのは難しいと考えられました。というのも、大日本麦酒から継承したブランドが「サッポロ」と「ヱビス」であり、どちらも地域にちなんだ名前だったからです。
そのため、これまで知られていた大日本麦酒を受け継ぐ形で日本麦酒株式会社と名付けられました。
戦時中の影響で1943年より国内のビールはブランド別のラベルが廃止され「麦酒」という統一商標を用いるようになっていましたが、1949年12月にビール各社の商標が復活します。
そして、そのタイミングで日本麦酒は、新ブランドである「ニッポンビール」を発売しました。「ヱビス・サッポロ改めニッポンビール」と記したラベルを貼って新ブランドであることをアピールした商品でしたが、残念ながら売上げは伸び悩みます。
日本麦酒の売上げ不調が続くなかで、1954年ごろからサッポロブランドの復活を願う声が社内で高まるようになりました。また、日本麦酒の独占市場だった北海道で1955年3月に麒麟ビールが発売されたことも手伝い、社外からもサッポロビール復活を待ち望む声が次々と寄せられるようになります。
そのような経緯を経て、1956年3月に「サッポロビール」が13年ぶりに復活しました。この時点では北海道限定商品でしたが、サッポロビールの販売好調を受け、翌年1月に全国発売の復活に踏み切りました。
サッポロビールの復活は、ニッポンビールでは伸び悩んでいたビール出荷量を増大傾向にするなど日本麦酒自体に大きな影響を与えます。
そして1964年1月、ついに社名を日本麦酒株式会社からサッポロビール株式会社へと改称しました!
新生サッポロビール株式会社へ
1956年にサッポロビールが復活してから15年後の1971年12月、今度は「ヱビスビール」が復活します。戦時中の1943年に発売停止されてから28年後のことです。
ヱビスビール復活に向けてサッポロビール株式会社が取り組んだのは、高品質のドイツタイプビールの商品化です。ドイツタイプというのは、米やコーンなどを使用しない麦芽100%ビールのことを指します。
ヱビスビールは日本初の麦芽100%ビールとして、これまでの国内ビールとは違ったリッチでコクのある味わいのビールとして復活しました。
1977年には「サッポロびん生」を全国発売します。これまで生ビールは夏のみに飲むイメージが強いこともあり、市場に出回っていた多くは熱処理されたビールでした。
しかし、生ビールが季節を問わず楽しめる商品であることをアピールし、それを世間に浸透させたのが「サッポロびん生」です。(「サッポロびん生」は1989年に現在の「黒ラベル」に名前が変更されました。)
そして、1980年には本格的に海外にも生ビールの輸出を開始します。1985年にはアメリカでの日本製ビールでシェア第1位になるなど、世界の“SAPPORO”として知られるようになりました。
サッポロビールのホームページでは、会社の歴史とそこに携わる人物を年表形式でご紹介しています♪
ご興味ある方は、ぜひ覗いてみてください。
▶https://www.sapporobeer.jp/company/history/
渋沢栄一は実はお酒が苦手?
サッポロビール株式会社の創立、発展のために大きな働きをした渋沢栄一氏。
大日本麦酒株式会社の取締役を務め上げたことを考えると、「さぞ、お酒好きだったのでは?」と思われがちですが、実はお酒はあまり飲まなかったといわれています。
実際、渋沢氏は酒に関する所感のなかで「私は本来、下戸であります。」と述べていました。また、高齢になってからは禁酒運動に対して肯定的な見方をもっていたこともわかっています。
とはいえ、取締役を務めていた69歳までの間は、ビール会社を支援するために大きな働きをしました。
明治の文明開化期において500もの企業の設立・育成にかかわった渋沢氏にとって、ビールは今後成長が見込める分野のひとつとみなしていたのでしょう。嗜好にかかわりなく、事業の将来性などを見込んで支援していたことがうかがえます。
まとめ
さて、渋沢氏とサッポロビールの歴史についてはここまでといたしましょうか。
1887年から数えると、約22年もの間サッポロビールの源流を支えてくださったことになります!
サッポロビール同様に、他500以上の企業に携わっていらっしゃったと考えると、改めて偉大なお方ですね…!
本日の晩酌は、渋沢栄一氏の功績に敬意を込めて。乾杯!
文責:サッポロビール 小林