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アメリカの禁酒法はなぜ制定された?その結末とは…

How Prohibition Reinvented Drinking In America

現代のアメリカにおいて、100年以上前に存在した禁酒法時代は、もはや神話のようなものといえます。人々が非合法の酒場に集い、クオリティの低いカクテルに酔いながら、ジャズの音楽で踊り明かしていた時代です。

禁酒法は一見すると人々から楽しみを奪う悪法でしたが、実際にはアメリカの飲酒文化を途絶えさせるほどのものではありませんでした。むしろ、したたかなアメリカの人々により、女性の飲酒が浸透したり新しい蒸留酒の味が伝わったりと、かえって新しい文化を花開かせるきっかけになりました。

2020年、アメリカの禁酒法が施行100年を迎えたことを記念して、ここではアメリカのお酒文化に法律がどのような影響が与えられたのか紹介します。

アメリカの禁酒法とは

禁酒法に近い政策は、古来より世界各地で実施されてきました。日本の例を挙げると、僧侶に対する禁酒令や武士に対する節酒令、農民に対する魚酒の禁などが時の支配者層によって発令されています。

世界的に見ると、飲酒や酒造を禁じること自体は特段めずらしい政策ではありません。しかし、アメリカの禁酒法の場合、近代史において法的な強制を行った唯一の例という特徴をもっています。

まずは、アメリカの禁酒法がどのような法律なのか、起源や目的などを紹介します。

禁酒法の起源

禁酒法制定への取り組みは、19世紀にはすでに存在していました。1851年にはメーン州(メイン州)が、1880年にカンザス州がアルコール禁止法を施行するなど、一部の州では実際に禁酒の動きが起こっていたほどです。

アメリカの各地で飲酒を禁じようとする動きが活発化しはじめた理由は、宗教団体や米国禁酒協会などが、アルコールがもたらすトラブルを問題視していたことにあります。アルコール中毒による健康への影響、せん妄や幻覚が生じることによる家庭内暴力や犯罪など、過度な飲酒は家庭を壊すと禁酒を訴える女性団体も現れました。

また、貧困問題にもアルコール乱用が絡んでいると見ていた禁酒支持者も少なくありません。

禁酒法とはなにか

ここで取り上げている禁酒法は、1920年にアメリカで施行された法律を指します。禁酒法というと、飲酒行為を取り締まるもののように感じる人は多いでしょう。実際の禁酒法はアルコール飲料全般の製造、販売、輸送、輸出入のみを禁止しており、どちらかというと愛飲者ではなく提供者側に打撃を与える内容でした。

1917年12月、禁酒法を施行するために、アルコール飲料全般に関する禁止事項を記した憲法修正第18条の追加が議会で可決されています。その後、各州の批准や法律の具体的な内容の調整が行われ、禁酒法が1919年に確定公布、1920年1月より施行となりました。

当時のアメリカ合衆国下院司法委員長、アンドリュー・ボルステッドの名にちなみ、禁酒法はボルステッド法とも呼ばれています。

禁酒法の目的は?

禁酒法の施行は、アルコール中毒や犯罪など、多くの禁酒派団体が訴えていたトラブルの発生を減らすことが目的です。家庭内暴力や健康被害、治安悪化は飲酒がもたらすものと主張する団体の中には、過激な抗議活動を行う人物も少なくありませんでした。

また、多くの移民が生活するアメリカゆえに、宗教的な考え方の違い、第1次世界大戦下における一部の移民への反発心なども多かったため、禁酒運動の高まりを招いたとされています。

しかし、いざ禁酒法を施行してみると、ブラックマーケットなどで質の悪いアルコール飲料が出回り、法律による劇的な抑圧効果は見られませんでした。禁酒法が若者や女性に飲酒習慣を浸透させ、かえって中毒者の増加や、新たな犯罪の出現を促したのです。

飲酒はOKだった?

禁酒法は提供者側を縛り付けるものでしかなく、愛飲者たちの行動を止める効果はありませんでした。条文には飲酒を禁ずるという記載はなく、「購入はできないが家にある酒を飲んでも咎められない」ためです。

入手さえできれば、アルコール飲料を飲んでも罪とされない環境は、人々に節酒や禁酒を促したり、罪悪感を生み出したりするほどの影響はなかったといえます。

禁酒法とはどのような時代だったのか

1920年1月17日の深夜にワイン、ビール、そしてわずかな例外を除く蒸留酒の販売が違法になりました。しかしお酒を飲むこと自体は違法ではなかったので、禁酒法が施行される直前には、手当たり次第に酒を買い占めようとする争奪戦が繰り広げられました。裕福な層は酒屋一軒分に値するワインやスコッチを買う資金と人脈、そしてそれらを収納する物理的なスペースを持っていましたが、それ以外の一般的なアメリカ人は自分たちでどうにか調達するしかなかったのです。

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禁酒法がアメリカ人の飲酒を止めさせようとして制定された法律でなかったことは明白です。『Last Call: The Rise and Fall of Prohibition』の著者であるダニエル・オクレント氏は「禁酒法施行直後から酒を飲みたい者が抜け道を見つけ出すことは容易なことだった」と書いています。また反対派への妥協策として認められていたアルコールの入手方法もいくつかありました。例えばウィスキーは“医療用”として医師に処方してもらうことができたのです。

この法律は施行当日から平然と無視されていました。ヨーロッパで買い付けられた蒸留酒がフェリーで運ばれ、ウイスキーはカナダから、ラム酒はカリブ海から密輸されていました。工業用アルコールを原料に杜松オイルで希釈・味付けした粗末な模造“ジン”が流通し、南部の片田舎では密造酒が作られていました。

Last Call』に引用されているように、新聞記者のマルコム・ビンゲイ氏は当時を辛辣な言葉でこう振り返っています。「デトロイトで酒を飲むことは不可能でした。なぜならバーカウンターに近寄って、混雑と喧騒の中でも聞こえるくらいの大声を張り上げ、忙しいバーテンダーに何が飲みたいかを伝えなくてはならなかったのです」。

アメリカが失ったもの

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要するに禁酒法時代のアメリカでお酒を飲むこと自体は難しいことではなかったのです。とはいってもアルコール飲料の取引全てがブラックマーケットに移ってしまったので、品質の保証を得ることは事実上不可能でした。「バハマの首都ナッソーから密輸されたシングルモルトのスコッチから、希釈した遺体の防腐処理用薬液まで、もぐりの酒場が出すドリンクは何でもありでした」とオクレント氏は書いています。

アメリカ全土で数千軒と存在した家族経営の醸造所の中には、長い歴史を持つ有名ブランドも多くありましたが廃業を余儀なくされ、また全国各地のバーが閉店しました。禁酒法施行前のアメリカはカクテルの黄金時代でしたが、その後この洗練されたカクテル文化は消えてしまいました。今日“クラシック”とされているカクテルの多くは、19世紀後半に栄えたアメリカのパブやプライベートクラブで発案されたものです。

結局のところ、どんな酒を使っているか分からないのにカクテルの味を保証することはできません。質の悪いウィスキーで作ったオールド・ファッションドなど飲めたものではありませんし、どこから来たのか分からない“ジン”で作ったマティーニもまた然りです。

そういった理由で、ヨーロッパの蒸留所やワイナリーには何世紀にも及ぶ歴史があるのに対し、禁酒法時代以前に正式なルーツを持つアメリカの蒸留酒ブランドはほとんど存在しないのです(あるとすれば、医療用ウィスキーを売っていたブランドばかりです)。禁酒法によって生産者の整理統合が進み、片手で数えられるほどの醸造所しか生き残ることができませんでした。その結果として、2~3の大会社が今なおビール市場を支配している現実があるのです。

少なくともビールは禁酒法時代を乗り切りましたが、りんご酒はそういう訳にはいきませんでした。植民地時代の初期から1920年代に至るまで、りんご酒は非常に人気のあるお酒でした。特にりんごが豊富に採れるアメリカ北西部では、ラガーやエールなどのビールと同じくらい大量に消費されていました。しかし禁酒法時代が終わってみると、りんご酒の存在は完全に忘れ去られてしまいました。つい最近になってようやく復活の兆しが見えてきましたが、昔のように大衆に好まれるドリンクになることは難しいでしょう。

また長年蓄積されてきたカクテルづくりの知見も失われました。「禁酒法によって、バーテンダーはいかがわしくて下品だというイメージが定番となり、カクテル文化は大きなダメージを受けました」とエバンス氏は言います。「この影響は禁酒法の時代から現代に至るまでずっと続いています」。

新たな蒸留酒の登場

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しかしアルコール飲料を禁じた禁酒法が、実はお酒の世界に進化をもたらしたという皮肉な側面もあります。カクテルとスピリッツ専門のライター、キャンパー・イングリッシュ氏は、禁酒法のいくつかの“良い点”について自身のサイト「アルカデミックス」で次のように説明しています。「南部から入って来るテキーラや北部から来るカナダ産ウイスキーのように国境を超えて密輸されてきたドリンクの人気が出たのはまさに禁酒法時代でした」。

禁酒法の廃止後も、輸入された蒸留酒の人気が衰えることはありませんでした。「カナダ産ウィスキーはさらに高い人気を維持しました」とエバンス氏。「禁酒法が廃止されると消費者は大急ぎでアルコール飲料を買いに走りましたが、アメリカ人の大好きな蒸留酒であるウイスキーは熟成する必要があるので、この需要を満たすのに十分な在庫がありませんでした。そこでウイスキーが飲みたくてたまらないアメリカ人は国境の北に目を向けたのです」。

またカリブ海全域で生産されるラム酒も人気のお酒の一つになりました。「禁酒法時代には特にニューヨークでラム酒が大変な人気を博しました」とザ・ラム・ハウスのパートナー、ケネス・マッコイ氏は言います。北東部では密輸されたラム酒を買うのが一般的でしたが、カリブ海に近いところに住む(または裕福な)アメリカ人は直接現地まで行ってラム酒を購入しました。

「禁酒法時代にはラム酒をベースにしたカクテルを求めて、多くの裕福なアメリカ人がキューバやその他の南の島の港町を訪れていました」とイングリッシュ氏。こうした事情に通じていた現地の蒸留酒ブランドは、飲酒目的の観光を促進するためマーケティングやアメリカ人観光客の出迎えに力を入れていたと言います。

バカルディ家5代目のレイチェル・ドリオン氏によると「バカルディは、アメリカ人観光客を本場であるキューバに連れきて、ラム酒とカクテルの文化に触れさせる機会に目を付けたのです」といいます。「また特製の絵はがきを使ってトロピカルなラム酒の楽園というキューバのイメージを植え付けました。これぞ1920年代版のソーシャル・メディア・キャンペーンです」。バカルディはバーテンダーのパッピー・ヴァリエンテ氏を空港に派遣し、カクテルのダイキリを片手に飛行機から降りてくるアメリカ人観光客たちを出迎えました。

ダイキリやモヒートなど今日でも人気のあるカクテルは、このようにして禁酒法時代にアメリカ人の知るところとなったのです。現在アメリカで最も売れているラム酒ブランドになったバカルディもその例外ではありません。

また禁酒法時代にラム酒の生産が加速したことにより、今も人気のトロピカルなカクテルであるティキが生まれたのです。「ラム酒を中心にしたティキ・バーが初めてオープンしたのは、禁酒法施行後の1930年代のことでした。その後第二次世界大戦が終わった1940年代には人気が爆発しました」とイングリッシュ氏は説明する。

「供給が不安定なこの激動の時代に、大量のラム酒が樽の中で熟成されていました」。熟成した美味しいラム酒がふんだんに手に入るようになったことから、先見の明のあるバーのオーナーたちはこれを最大限に活用するビジネスに目を付けたのです。「1944年にトレイダー・ヴィック氏が発案したマイタイには、17年もののジャマイカ産ラム酒が使われていました。また複数の島で生産されたラム酒をブレンドすることは、ティキ・カクテルの特徴の一つになりました」。

カクテルと伝統

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禁酒法が施行された1920年代のアメリカはカクテルにとって冬の時代でした。そのため才能あるバーテンダーたちが大挙して国外に離散していきましたが、彼らは海外でも創意工夫を怠ることはありませんでした。

「禁酒法時代に登場した人気のカクテルは、実はアメリカで発案されたものではありません。むしろ別の地域で様々な影響を受けて生まれたのです」とエバンス氏は説明します。「ご想像の通り本国で職を得ることができなくなった一流のアメリカ人バーテンダーたちは、パリやロンドン、または近場のキューバなどの大きなバーに移っていったのです」。あまり知られていない古典的なカクテルのメアリー・ ピックフォードもこうして生まれたカクテルの一つです。ラム酒とパイナップル・ジュース、グレナデン・シロップ、マラスキーノをシェイクしたこのカクテルは、サイレント映画時代に大活躍した女優の名を冠しています。

また以前から使われていたミキサーは、禁酒法時代にはるかに多くの場面で使われるようになりました。なぜなら怪しげな酒は混ぜ物をしてごまかした方がいいからです。偽のジンはマティーニにするよりもトニックで割ったほうが美味しく、密造ウィスキーにはソーダよりジンジャーエールを混ぜた方が飲みやすかったのです。そしてコカ・コーラも空前の大成功を収めました。禁酒主義の人たちだけでなく、質の悪いドリンクの味をごまかすのに必死だった酒飲みにも大量に購入されたからです。

女性の飲酒も後押し

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禁酒法はアメリカ人が何を飲むかだけではなく、誰と一緒に飲むかという習慣にも変化を引き起こしました。非合法のもぐり酒場は決まり事などほとんど存在しない場所であったため、女性も男性と同じようにお酒を楽しむことができたのです。

「アメリカの古い酒場であるサルーンは一般的に男性だけの場所でした。禁酒運動に賛同した人々の一部は完全に反アルコールというわけではなく、むしろ反サルーンだったのです」とイングリッシュ氏は言います。「禁酒法時代にオープンしたもぐりの酒場や自宅で開かれるカクテルパーティーでは、男女に関わらずお酒を愉しむ姿が見受けられました。禁酒法が廃止された後も、高級ナイトクラブやカクテルバーではこの状況は変わりませんでした」。

現代のもぐり酒場

ブラックマーケットでの取引を除けば、アルコール飲料業界を完全に一掃した禁酒法は、アメリカの蒸留酒、バー、カクテル文化に莫大な被害を与え、様々な意味で飲酒の暗黒時代を引き起こしました。例えば、古典的なカクテルが現代のバーに本格的なカムバックを果たしたのも、ここ十数年の話です。

こうしたバーの多くは、カクテルのレシピは禁酒法以前の時代を参考にしつつ、店の雰囲気は禁酒法時代のもぐり酒場をイメージしています。「ミルク & ハニー」をはじめとする先駆者的なクラフト・カクテル・バーやその後に人気を博したPDT(Please Don’t Tellの意。隠れ家的なバーを指す)などは、どれも暗い照明と看板のない入口が呼び物でした。それから10年以上が経ち、今や世界中のバーがこの店舗スタイルを採用しています。

「もぐり酒場のスタイルは今も世界中で引き継がれています。普通は入ることができない特別なパーティーに招待されるのが嫌いな人なんていませんからね」とエバンス氏は言います。

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「誰かを飲みに誘って看板も何もないドアをノックし、暗い店内で美味しい酒を愉しむことの魅力は計り知れません。このようなバーが蒸留酒を使った雰囲気のある茶色のカクテルを世界中で復活させています。バーテンダーたちは過去から学んで自分たちのスキルを高める大切さを再発見しているのです。これは決して悪いことではないと私は思います」。

ブルックリンにある「ザ・シャンティー」のヘッドバーテンダー、マリッサ・マッゾッタ氏もこの意見に同意しています。「もぐり酒場はクールでセクシーな存在へと変化しました。もぐり酒場にいるということはすなわち事情通だということの証明なのです。2000年代にもぐり酒場の文化が人気を博したことによって、ビールやショットのドリンクを出すだけというバーテンダーのイメージも変わってきました」と彼女は言います。「今は尊敬に値するきちんとした職業だと認められているのです」。

カクテル文化をほぼ壊滅させた禁酒法はつまるところ天下の悪法であり、短命に終わった社会的実験でした。しかしその反面、ミキサーの使用やラム酒を使ったカクテルの発明、さらには現代版もぐり酒場の登場や、女性のバーでの飲酒まで、短期間でありながらに実に多くの効用をもたらしたともいえます。禁酒が叫ばれたこの時代は、その後1世紀以上にも及ぶ影響をアメリカ人の飲酒習慣に残したのです。

アメリカの禁酒法の廃止

アメリカの禁酒法は1920年に施行されてから、14年続きました。

第31代大統領ハーバート・フーヴァーは当時、禁酒法を「高貴な動機と遠大な目的をもった社会的、経済的実験」と評しています。一方で反対派の間では、大統領の「高貴な実験」発言は失笑を誘うネタとされており、禁酒法がいかに多くの混乱や反発を招いた法律であったかが分かります。

さまざまな思惑が絡み合った結果、前述のとおり国民の飲酒を厳格に禁じるには至らなかった禁酒法は、やがて終焉を迎えました。最後に、禁酒法の廃止について紹介しましょう。

禁酒法廃止はいつ?

1933年12月、多くの愛飲家が待ち望んだ禁酒法の廃止が実現しました。

法廃止は通常、容易にできるものではありません。禁酒法制定にともない1917年に憲法修正第18条が可決されていたことから、この悪法を終わらせるためには、まず憲法修正を再度行う必要がありました。

国民の禁酒法に対する反発心を追い風としたのが、ハーバート・フーヴァーに次いで第32代大統領となったフランクリン・D・ルーズベルトです。彼が所属する民主党は党大会で禁酒法撤廃を掲げることにより、多くの票を集めて圧勝し、見事ルーズベルト大統領を誕生させました。

1933年3月23日、まず憲法修正第18条の修正案に大統領署名が行われています。4月7日に施行された改正法によって、ビールや低アルコールのワインなど一部の製造販売が認められるようになりました。

同年12月5日には、憲法修正第21条によって修正第18条が廃止となり、禁酒法そのものが葬られています。

禁酒法が廃止された背景

禁酒法がわずか14年で廃止された理由は、複数挙げられます。反対派への妥協案も多く盛り込まれた法律は、そもそも飲酒することは禁じておらず、国民には多くの抜け道が用意されていたことも大きな要因といえます。たとえば、国内で手に入れられないのなら国外で入手すれば良いとばかりに、国境を越えて飲酒する人もいました。

アメリカの各地にブラックマーケットやもぐり酒場が生まれた結果、取り締まりが非常に困難となったことも、法廃止の理由のひとつです。田舎町でもアルコール飲料の密造や密売が横行し、流通経路を支配していたギャング同士の縄張り争いが各地で起こるなど、禁酒法関係のトラブルは少なくありませんでした。

1920年、禁酒法が施行されるのを後押ししたのは、過度の飲酒による家庭内暴力などの被害を受けていた女性たちです。道徳的な新しい世界を作ろうと施行された禁酒法によって、かえって前述のような多くのトラブルが生じたことは、大きな皮肉ともいえます。

さらに、1929年の大恐慌も、禁酒法の廃止を政府に決定づけさせました。禁酒法による越境者や密輸による自国産業へのダメージに加えて、世界的な恐慌で政府財源の確保が急務となったためです。

困難な取り締まりや密造・密売の横行、世界恐慌など、いくつもの要因が重なった結果、アメリカの14年にわたる禁酒法の歴史は幕を閉じました。

まとめ

禁酒法は、1920年代のアメリカ人の生活に大きく影響しました。一方で法律自体が飲酒を厳しく制限するものとはいえず、結果的に外国から多くの魅力的なアルコール飲料が輸入されるきっかけを作ったのも禁酒法です。

禁酒法の影響で誕生した多くの文化は、現在もアメリカに根付いています。もぐり酒場のような隠れ家バーや新しいカクテルを見つけたときは、禁酒法時代を強かに生きたアメリカ人たちのように、冒険心を奮い立たせてみてはいかがでしょうか。

この記事はFood & Wineのキャリー・ジョーンズによって書かれたもので、NewsCredパブリッシャーネットワークによってライセンスされています。ライセンスに関する質問については、legal@newscred.com.までお問い合わせください。

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