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第7回:サッポロビールの生みの親『中川清兵衛』ってどんな人? ❸「ドイツ→日本」編 サッポロビール社史相談室

(画像1)登場人物.png

<登場人物>

サッポロビール㈱社史相談室/社史原ノリ子
入社3年目。社史(会社の歴史)に関するよろず窓口。普段は社史室にこもって黙々と仕事をしているが、相談を受けるとノリノリになる。愛称はシャッシー。

サッポロビール㈱東京外食営業部/営業マン太郎
入社3年目。東京中を飛び回る営業マン。社史、特に自社商品の歴史に関する知識を身に付け、営業活動に活かしたいと考えている。シャッシーとは同期入社。愛称はマン太郎。

いよいよ帰国

さぁシャッシー!中川清兵衛(以下、清兵衛)の話の続き聞かせてくれ~。ワクワク♪

あ、マン太郎くん。前回はどこまで、話したっけ?

清兵衛がベルリンビール醸造所で修了証書を授与されたところだよ。

あ~そうだったね。

この後、清兵衛は日本に帰り、開拓使麦酒醸造所の主任醸造技師になるんだろ?どういう経緯でそうなったんだ?

うん。それについても、青木周蔵(以下、青木)が、道筋をつけてくれたの。

お~、青木は頼りになるな~。

その時点で青木はドイツ特命全権公使になっていたんだけどね。

へ~、いきなり出世したな~。

1875(明治8)年5月1日に清兵衛がベルリンビール醸造所で修業証書を受け取ると、青木はすぐに清兵衛に帰国を勧めたの。

ということは、開拓使が清兵衛を雇用することは、既に決まっていたということ?

いや、それはまだ決まっていない。青木は、そのタイミングで、開拓長官の黒田清隆に、清兵衛を推薦する書簡を送るの。

(画像2)青木と黒田.png
▲左:青木周蔵、右:黒田清隆(開拓長官)

え?開拓使とはまだ話はついていないけど、すぐに帰国しろと?

うん。そういうことだね。というか、開拓使はまだこの時点ではビール事業について最終決断していなかったと思う。

えーーー?そうなの?

青木周蔵の書簡

青木は黒田への書簡の中で、開拓使事業の一環として北海道でビール醸造をすることを強く勧めているの。その文章がこれ。

(画像3)青木書簡.png
▲青木が黒田宛に送った書簡の一文(『青木周蔵自伝』より)

【現代語訳】
「将来、日本人もビールを嗜むようになるだろう。(中略)さて、ビール醸造には多くの氷を必要とするため、現在の東京では大量の製氷を得ることが難しい。それゆえ、貴管地においてビール醸造に着手されてはいかがだろうか。とりわけ、ビールの醸造は原料である大麦の耕作を促し、北海道開拓の一助にもなるであろう。」

お~、ビール事業の将来性や、ビール醸造における氷の必要性についても、既にここで触れていたんだな。さすが、青木は先見の明があるね。

そうね。それに、この書簡はタイミング的にもバッチリだったの。もともと開拓使は、お雇い外国人からの提言で大麦やホップの試験栽培を実施していて、ビールの事業化を検討していたから、青木の書簡は黒田の意思決定の大きな後押しになったはずよ。

「ドイツでビール醸造を学んだ日本人の醸造技師」を雇える!っていうのも黒田にとっては朗報だよね。

確かに。そんな人財は清兵衛以外にいないからね。

うん、うん。

交わる二つの運命

下の表なんだけど、「開拓使のビール事業の検討」、そして「中川清兵衛のビール醸造の修業」、それぞれの経緯を年表にまとめてみたよ。

(画像4)開拓使と中川~交わる2つの運命.png

なるほど~。開拓使と清兵衛、二つの流れが1875年のタイミングでちょうど交わるんだな。

そうなの。あまりにもタイミングが合い過ぎで、何か運命的なものを感じる。

あと、この年表ですごいことを発見したぞ!

え?なになに?

1871年と岩内。1イ8ワ7ナ1イ、年号と地名が見事に一致している!これすごくない?年表語呂合わせマニアのマン太郎は見逃さなかったぞ!

へ~!でもそれは本題とは関係ないから、私はノーコメント。

ノーコメントということは「言わない(1871)」ってことだね?

・・・

村橋との出会い

(画像5)シャッシー.png

さぁ、話をすすめるよ!10年ぶりに帰国した清兵衛は、開拓使東京出張所で、村橋久成(以下、村橋)と面会し雇用契約を結ぶの。職名は「麦酒醸造人」。破格の好待遇だったらしいよ。

それはすごい!で、村橋はどういう立場?

村橋は開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者として任命された人物。だから、清兵衛の上司ということになるね。村橋は上級武士の家に生まれ、幕末には薩摩藩の留学生としてイギリスに渡っているんだ。

清兵衛と同じ海外経験者なんだ。しかも清兵衛も約6年間いたイギリス!

そう。イギリスでは、初めて見る蒸気機関など、産業革命の驚異的な成果に触れたんだけど、これがのちに開拓使事業の推進に大きく役立ったんじゃないかな。

(画像6)中川と村橋.png
▲左:中川清兵衛、右:村橋久成

なるほど~。ところで、このとき二人は何歳?

村橋は32歳、清兵衛は27歳。入社3年目の私たちよりもちょっと上なだけ。

へ~そんなに若かったんだ。びっくり!

この二人の若者が中心になって、いよいよビール国産化への挑戦が始まるよ!で、この中川清兵衛の話、3回シリーズって言っていたけど、終わらないので、次回4回目に続きまーーーす!

お~楽しみだ。あ~しかし、シャッシーの話を聞くと、いつも無性にビールを飲みたくなるよ。

マン太郎くん、まだ勤務時間中だから、それは、1イ8ワ7ナ1イ!


(画像7)マン太郎.png

<バックナンバー>

「サッポロビール 社史相談室」

<この記事を書いた人>

山根 一洋 (Kazuhiro Yamane)

1987年サッポロビール㈱入社。ヱビスビールのブランドマネージャーなどマーケティング部門を歴任。ラッキーヱビスの生みの親。現在は広報部で、社史に関する記事執筆や社員教育などを担う。同時に、一般社団法人日本ビール文化研究会でビア検(日本ビール検定)の企画・運営、書籍『知って広がるビールの世界 ビア検公式テキスト』(Amazon売れ筋ランキング 本 ビール部門1位)の編集主幹を務める。趣味のラジオCMコピー制作では、第7回文化放送ラジオCMコンテストでグランプリ&リスナー大賞など受賞歴多数。

<補足>

※このコラムに登場する人物や部署は実在しません。しかし、サッポロビールの社史に関する話は、事実に基づいたものです。

<画像>

※男女イラスト:iStock.com/wakashi1515

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